ruruuunのブログ

まったくの自分用メモ。ほかこんなこと考えてるよメモ。メモメモメモ。

想い出

父は、物書きであった。
詩の同人誌に寄せた最後の原稿を、私は大切に持っている。だが、難しくて半分も理解できないのだ。
もしかすると、理解し、共鳴していただけることを願って、ささ舟に乗せてついと放ってみる。
 
 
 
神の蝕の時代に死ぬということ
 
病友S氏が逝った。まだ40歳代であった。S氏は大手の会社から子会社へ出向して重役を務めていた。
ビシネスの面白さと責任から、多少の徴候を我慢して仕事しているうちにがんは転移していた。退院してからも出社した。ビシネスはS氏の生涯に意味を与えるものではなかった。苦悩した彼は、私の教会に同行することを乞うた。
礼拝後、「もっと早く来るべきだった」といった。
 
若い頃、「神の死の神学」を読んでショックを受けたことがある。先史時代以来、「聖なるもの」の神性は変わらなくてもそれを受容する人間の側の変遷によって、神観念は幾度か滅び、そしてより深く精緻になって神は甦ってきた。
 
今日の支配的な世界宗教は、科学主義・技術主義・唯美主義という三位一体の大衆的な信条である。「神の死」以後、神の空位に人間を就けようとする試みは比喩と憶測に過ぎなかったようだ。人間性の完成への内的衝動が人間自身にあるということは幻想にすぎない。神性と対称的な人間性は、神の死とともに自滅する運命にあった。今や「人間の死」が言われるようになった。構造主義あるいはシステム論は、生きられる意味を解体し、主体としての人間を消失させるというものであった。
 
「人間」に代わって生物と地続きの「ヒト」が現代の枢要な概念になるようだ。第二次世界大戦アウシュヴィッツ七三一部隊原子爆弾は、組織と命令によって動く、蜂窩の絶対性を信ずる昆虫的ヒトを明るみに出した。ヒトの死は数量でしかない。「聖なるもの」の否定は、世界を文化的諸制度で満たし、蜂窩依存のヒトをますます強固にしている。
こうした時代に、独りの人間として意味をもって死ぬということは困難がある。卑猥な尻を持つ世界を追いかけるのでなくて世界からの出口を捜すこと。超越こそ自由と希望の源泉ではあるまいか。ルター的な古い神は死に、来るべき新しい神が復活するであろう。それを信じ、幼いことから親しんだイエスと少量のモルヒネを以て去ろうと思う。
 
S氏の臨終の言葉は「誰にも会いたくない」であった。